市民教育とインクルージョン:市場の視点か、公益の視点か?

現代の世界が、ガリレオやミケランジェロのような、確立された通念や不変とみなされていた世界観に敢然と異議を唱えた都市住民らによってもたらされた暗黙知や形式知の上に築かれてきたことは周知の事実である。

ジャック・L・ブーシェ JACQUES L. BOUCHER
ケベック大学ウタウエ校(カナダ)社会福祉・社会科学部教授

近年私たちは、現代は知識経済社会なのだと気づかされることが度々ある。今後、市民の教育訓練に大きく投資する社会は、グローバル競争のなかで有利な立場を占めていくだろう。したがって、教育は競争という概念において新たな役割を与えられつつある。この競争の概念は南北を問わず社会のなかで奨励されているだけでなく、そこには教育の最大の恩恵は経済的な利益であるという含みがある。このため、知識に特に関係しない技能がしばしば過大評価される一方で、抽象的で実用性がないとみなされる知識分野がないがしろにされることが少なくない。

しかしながら、現代の世界が、確立された通念や不変とみなされていた世界観に異議を唱えたガリレオやミケランジェロのような都市住民らの勇気ある行動によって、潜在的な知と顕在的な知の両者の上に築かれてきたことは周知の事実である。むろん、彼らがそのような行動に及んだのは、支配的な権威に抵抗しただけでなく、新たに出現してきた制度や新しいタイプの権力の後押しがあってのことである。また、啓蒙時代における新たな形態の知識の普及が、印刷術という重要な技術開発によって促進されたことにも留意しなければならない。インターネットなどの新たな形態の通信メディアは、疑いなく知識と情報の普及における同等に重要な進歩である。

だが、西洋社会で就学率が上昇し、ほとんどの市民が読み書きを学べるようになったことによってもたらされた社会の変化がなかったら、印刷の普及がどれほどの影響を及ぼしえただろうか? つまり、誰もが教育を受け、字を読めるようになったからこそ、市民たちは情報にアクセスし、少なくとも原理上は自らの意志を表明できるようになったのである。もちろん、長きにわたってエリート層の特権であった教育が西洋社会のすみずみに広まるまでには、何世紀もの時間が必要だった。初等学校就学の義務化による普遍的教育は、まず何よりも権利とみなされなくてはならないもので、国が運営する公立学校の設置のおかげで真の革命となった。ところが、現在でも世界の人口のうちかなりの割合は、この読み書きを学ぶ基本的な場となる初等教育を受ける権利を享受しておらず、印刷媒体や電子媒体を通じた市民レベルでの情報入手と自己表現の手段を持てずにいる。そればかりではない。効率的で手頃な価格の通信技術をいくら開発したところで、メッセージや情報を読み解く知識がないためにそうした通信手段を利用できない人が多ければ、どれほどの役に立つだろうか?

このように、民主主義と草の根レベルの社会参画の発展は、責任ある政府と国の機関が、経済的地位にかかわらず全ての市民に基本的教育を受ける普遍的な機会を提供しない限り確保できない。知識と普遍的中等・高等教育への基本的なアクセスを保証することは、公共の利益に目を向けた機関にしかできない。しかし不思議なことに、超現代社会には過去数十年にわたって、教育を個人の問題とみなし、教育へのアクセスを個人的投資とみなす傾向がある。教育における競争の概念は、公立学校を含めた教育機関のランク付けの推進、ことに公立学校と私立学校を比較する動きによってもたらされている。新たな形態のエリート主義が教育の分野に入り込みつつあり、組織や当局のなかには「グランゼコール」(Grandes Ecoles:名門高等教育機関)とみなされる機関を宣伝し、明らかに支払い能力のある層が高い教育費を負担することを正当化するところもある。このような教育の描写は、教育市場という概念を浸透させようとするものであり、市場的アプローチを取ることで、収益性のある知識の習得を望む学生に、より高品質の商品を保証できると主張する。

この傾向は、普遍的権利とみなされるべき教育権からかけ離れた動きであり、収益性ばかりを求めるのでなく、何よりもまず、全ての個人を市民生活に参加し社会を形成する人間に育てるという教育の概念からもかけ離れている。もちろん、教育の枠組みにさまざまな変動要素を取り入れることは、革新や求められる変化の促進につながるかもしれない。しかしそれは必ずしも、教育のマーケティングと競争をあおり、エリート校の設置を奨励するものでなくてもいいのではないだろうか? 私立学校と公立学校のバランスの必要性はよく指摘されるところである。加えて、社会運動や市民社会組織での長年にわたる社会教育で培われる経験については、ほとんど重要視されることがない。

労働運動は200年前の産業革命時代に生まれた。その初期に現れたのは相互扶助組織で、その後、労働者協同組合や職能別労働組合が誕生した。これらの組織はきわめて機略に富み、かつ革新的であっただけでなく、当時から現在もなお、経済や社会権擁護の訓練の場であると共に、意思決定と社会参画の真の学びの場でもある。このことが、1世紀以上にわたって続く社会経済学の系譜も生み出してきた。このような環境で運営される企業には本質的なコミュニティ感覚があり、その成員と代弁者が政治・経済機関と交渉することを認め、経済の民主化を支援することにより、参画とオープンな議論が保証されている。女性解放運動などの最近の社会運動にも同じことが当てはまり、その種の組織は社会権擁護や積極的な市民融合、代替的サービス提供者の開発などを実践的に学ぶ場となっている。環境問題やグローバル化モデルに関する議論の場においても、同様の形態の学習や教育の例が見られる。

こうした各種の組織とそのネットワークに共通しているのは、そのコミュニティ感覚である。これらの組織は、より大きな集団に参加する自由を個人に与え、私益ではなく、コミュニティの――そして時に普遍的な――利益のために働く。この点において、これらの組織は公的教育制度の不足を補う力として、より正当で信頼できる存在であろう。