持続可能な開発のためのアカデミック・インパクトと教育:黒海地域の大学の貢献

12年前の設立以来、同ネットワークは学生と教員の移動を促進し、さまざまな分野の学会、サマースクール、ワークショップの運営を行っており、今日では協力、専門的交流、永続的な人脈作りのための非常に貴重な場となっている。

エデン・マムート EDEN MAMUT
黒海大学ネットワーク(ルーマニア、コンスタンツァ)ディレクター

黒海地域は「文明の揺りかご」と呼ばれてきた。その過去の歴史的財産のなかには、金の羊毛を求めて旅したイアソンとアルゴ船隊員の伝説や、聖書に出てくるノアの方舟の物語の舞台としての顔もある。世界史に刻まれる黒海沿岸の地名は、アテネ、イスタンブール、オデッサ、セバストポリ、トロイ、ヤルタと枚挙に暇がない。

自由な討論と、個人や社会にかかわる大きな問題についての深い分析を行う場としての大学の概念は、太古の昔に黒海地域で生まれ、発展してきた。

十字軍とモンゴルの「黄金軍団」の時代からソビエト連邦崩壊まで、この地域はさまざまな宗教的・政治的変革を目撃してきた。長い年月にわたって数え切れないほどの征服の犠牲となり、耐え忍んできたこの地域の人々は、今日ではさまざまな文化と宗教が交じり合う社会を形成している。

石油、天然ガス、鉱物資源を大量に埋蔵し、農業に適した条件に恵まれ、東西間、南北間の輸送ルートが交わる点に位置する黒海地域には、大きな経済的潜在力がある。世界銀行によれば、1900万平方キロの面積に3億3600万の人口を抱えるこの地域は、2006年に7.3%の成長率を記録し、国内総生産の総計は13億ドルにのぼった。

しかしながら黒海地域は依然として、ドニエストル川沿岸、ナゴルノ・カラバフ、オセチア、コソボなどいくつもの未解決の紛争に苦しんでいる。

工業化、粗放的・集約的農業、域内の人口爆発が、元に戻せないほどの土壌劣化、魚介類の乱獲、富栄養化、黒海への有毒化学物質や放射性毒物の流入を招いてきた。その結果、黒海は毒物に汚染され、生き物がほとんど生息しない生態系になる危険にさらされている。それは、ほぼ類を見ないほどの生態学的災害である。

こうした課題に対処するため、黒海経済協力機構議員会議(PABSEC)の提言に従い、1998年の第2回黒海地域大学長会議において「黒海大学ネットワーク」が設立された。

地域の学術界はこのネットワークを熱意をもって歓迎し、その規模は現在までに黒海経済協力機構の12加盟国(アルバニア、アルメニア、アゼルバイジャン、ブルガリア、グルジア、ギリシャ、モルドバ、ルーマニア、ロシア連邦、セルビア、トルコ、ウクライナ)を代表する117大学にまで拡大した。

12年前の設立以来、同ネットワークは学生と教員の移動を促進し、さまざまな分野の学会、サマースクール、ワークショップの運営を行っており、今日では協力、専門的交流、永続的な人脈作りのための非常に貴重な場となっている。

  • 黒海大学ネットワークの基本的な柱は次のとおりである。
  • 地域の持続可能な開発への積極的関与
  • 大学の役割を、受け身的な組織の役割から、社会的、経済的、文化的発展の原動力に転換
  • 学術研究、知識移転、革新に関与させることで価値の高い経済部門の出現を促進
  • エネルギー安全保障と再生可能エネルギー源統合への直接的貢献
  • 地域の社会的結束と紛争防止のための革新的な解決策の創案

ここで、このネットワークの枠組みのもとで推進された、いくつかの実績を紹介したい。

黒海地域ではチェルノブイリ原発事故、アゾフ海の原油流出事故などの環境災害を経験してきたほか、他の惑星の景色かと見紛うような工業複合施設も存在する。

黒海大学ネットワークはその設立以来、地域の持続可能な開発に注力してきた。同ネットワークの2008年会議に際して調印された「黒海地域の持続可能な開発のための大学長のキエフ宣言」は、次のように謳っている。「われわれは、これらの根本的な問題に対処し、この傾向を逆転させるための緊急の行動が必要だと考える。均衡のとれた人口動態政策、環境に適した工業及び農業技術の採用によるエコイノベーション、再植林、生態系の再生は、自然と調和した形で地域の全市民のための公平かつ持続可能な未来を創出するうえで、きわめて重要な要素である。大学はこれらの目標を実現するのに必要な教育、研究、政策策定、及び情報交換において主要な役割を担う」。

この宣言の成果は域内の多くの大学で目に見える形で現れている。こうした大学では学士、修士、博士の各課程での持続可能な開発に関するプログラムや、環境寄りのカリキュラムを導入し、そのどちらもが学生たちのより積極的な関与につながっている。先頃は、持続可能な開発のための教育の分野でバルト諸国と黒海地域の相乗効果を創出するために、バルト地域の大学をネットワークでつなぐバルト諸国大学プログラムとの新たな協力が始まった。

ネットワークの活動の二つ目の例は、少数言語の保全に関するものである。

黒海地域においてもろもろの軍事勢力や政治勢力の衝突が続いた何世紀もの間、地域コミュニティは移住、分離、政治的・経済的・宗教的権利の変動という複雑な経験を強いられた。

典型的な事例は、18世紀末に始まったクリミア・タタール人のクリミアからの移住である。ただし、その最も劇的な段階は、1944年5月18日に当時ソ連の最高権力者であったヨシフ・スターリンが発した命令による強制移住である。女性や子どもや弱者が至近の鉄道の駅までトラックに乗せられ、貨物列車で中央アジア、ウラル地方など連邦内の僻地に送られたのである。それから55年後、生存者はようやく故郷に帰還する権利を手にすることができた。だが、ちょうど旧ソ連崩壊の時期と重なり、政治的、法的、経済的な支援を何一つ受けられないまま進められたクリミア・タタール人の再統合は、黒海地域に新たな劇的要素をもたらし、今後爆発しかねない火種となっている。

黒海大学ネットワークは、この問題にきわめて慎重に対処してきた。タウリダ国立大学とクリミア工科教育大学(TPUC)は、ウクライナ国立工業大学(NTUU)との協力により、高度な定量的モデルを開発し、クリミア地域にもたらされる経済、政治、法律、環境上の結果の分析とシミュレーションを行うツールを意思決定者や市民社会に提供している。

クリミア・タタール語の改革に取り組むTPUCの作業部会は現在、ルーマニアのコンスタンツァにあるオヴィディウス大学、トルコのサカリャ大学と協力して作業を進めている。また、ネットワークでは欧州評議会及び欧州委員会との協力で2008年12月にブカレストにおいて「少数・地方言語の保護に関する国際会議」を開催し、ヨーロッパ地方言語・少数言語憲章の履行状況の評価を行った。ケーススタディとして、ブルガリア、ルーマニア、ロシア連邦、トルコ、ウクライナその他複数の諸国で使用されているクリミア・タタール語の状況を評価し、2009年にシンフェロポリで行われた第1回クリミア・タタール世界会議で報告を行った。これを受けて、TPUC及びその他の機関により、クリミア・タタール語のアルファベットをキリル文字からラテン文字に変更するための特別委員会が設置され、変更に向けた最初の草案がアゼルバイジャン、ルーマニア、ロシア連邦、トルコ及びウクライナのネットワーク加盟大学に配布された。これと並行して、ルーマニアとウクライナの教育省の支援を受け、TPUCとオヴィディウス大学により両国でのクリミア・タタール語教育プログラムが開発された。この合意のもとで、情報通信技術ツールと専用ウェブサイトを利用してカリキュラムと授業計画、教育技法及び支援活動に関するワークショップ、セミナー、研修コース、討論会が運営された。

先頃、ルーマニアの教員4名と8~16歳のタタール人生徒30名が、ウクライナのクリミア地方からの参加者と共にクリミア自治共和国でのサマーキャンプに参加した。このキャンプは、ルーマニアとウクライナでのクリミア・タタール語教育の標準的基準として用いられる最終的なカリキュラム、授業計画、教授法を試行することを目的としてTPUCがコーディネートしたものである。

黒海大学ネットワークが発展させた活動の三つ目の例は、エネルギー安全保障と再生可能エネルギーの分野に関するものである。黒海地域は大量のエネルギー資源を有し、欧州連合諸国に流入する石油と天然ガスの重要な輸送拠点でもある。

しかしながら、域内の環境問題は再生可能エネルギー源の開発に直接的な影響を及ぼす。その開発は国境を越えた協力があってこそ可能になるものだ。だがこの地域では、再生可能エネルギー源の開発も含めた投資プロジェクトをめぐってコミュニティ間の紛争や衝突が相次ぎ、残念なことに非協力のメンタリティが受け継がれている。

この問題への対応策として、黒海大学ネットワークは1998年、北大西洋条約機構(NATO)の科学プログラムと米国のデューク大学のほか、黒海地域と世界各地のさまざまな大学の大勢の科学者を集めたグループの支援を受け、意見交換や共同研究プロジェクトを行う「先端工学科学センター(CAES)」を設立した。2006年にブルガリアのヴァルナで開催されたネットワークの会議では、地域の持続可能エネルギー戦略のなかで、対応策の促進における大学の役割が強調された。その後ほどなく、ネットワークはさまざまなパートナーシップを構築した。たとえば、国連工業開発機関がイスタンブールに設立した水素エネルギー技術国際センターとの河川水・湿地浄化プロジェクト、オランダのペッテンにある欧州委員会共同研究センターとの燃料電池技術の基礎に関する地域サマースクールの企画、イタリアのローマにある国立新技術・エネルギー・持続的経済開発機構との協力によるエネルギー管理と再生可能エネルギー源に関するマルチメディア研修の開発などである。

予備的プロジェクトとして、イスタンブール工科大学、タウリダ大学、モルドバ工科大学、ヴァルナ工科大学、オヴィディウス大学の加盟5大学は、エネルギー管理分野の修士課程の相互調整を図り、将来的には地域共同の学位課程を設立することを決めた。

黒海大学ネットワークの主目的は教育における協力だが、研究・革新活動への加盟大学の参加も同様に重要である。2008年には、CAESがネットワークを代表して「持続可能性確保のための気候・エネルギーに関する先例のない協力の探究(SUCCESS=Searching Unprecedented Cooperation on Climate and Energy to ensure Sustainablity)」と呼ばれる知識・革新コミュニティに関するパイロットプロジェクトに参加し、将来の知識・革新コミュニティの必要条件を定義した。その後、CAESは欧州工科大学院(EIT)の持続可能エネルギープロジェクト「InnoEnergy」のパートナーに選ばれた。EIT-InnoEnergy共同事業体はドイツのカールスルーエ工科大学がコーディネートにあたっており、主要な大学、研究機関、革新的企業、そして「革新技術の効果的な商業化により……2050年までに気候に影響を及ぼさないヨーロッパを可能にする独立した持続可能なエネルギーシステムへの道を開く構想」を結集している。

2010年、黒海大学ネットワークとユーラシア大学協会、カスピ海地域大学協会は、モスクワ国立大学で高等教育に関するフォーラムを企画した。このフォーラムは千人を超える参加者を集め、広い地域の学術界の関心を集めた。発表者らは、黒海地域の大学は学術、科学、文化に関する問題の創出、展開、伝達、探究を考える際には、自らのコミュニティの社会的要求を考慮に入れるべきだと述べた。同様に、各大学はコミュニティの文化的、社会的、経済的発展のために提供できる科学的及び技術的支援について検討すべきだとの意見も出た。しかし、発表者らがさらに強く主張したのは、大学は社会において主要な役割を担い、持続可能な開発と地元コミュニティの繁栄のための革新的な解決策を提供することにより、重要な意思決定に積極的に参加すべきだということである。